僕の宵と明けの唄

僕の宵と明けの唄

アスペルガー症候群の僕の日々の生活・趣味を綴ります。

亡き人を偲ぶ夏~祖父・一太~3 大正・昭和、大戦前の良き時代

 祖父は子どものころ遊んだ、ふるさとの風景に対する想いが強く、

 

  ふるさとの山川恋しなつかしく

                             佐藤松嶺

と詠んでいます。

 

 戦後は郷里に帰りますが、長男といえど、一度、家督を妹に譲った身として、紆余曲折を経て、商工会に勤めることを選択し、祖母は苦しい時代、りんごなどの行商をしたり、伯母が成人してからは看護婦として、父は役場勤めで家計を支えます。

 

 「戦争がなければ」と素直に言葉に出すのは祖母の役割でしたが、祖父は戦前の日記で、郷里に帰ったり、東京での親子睦まじい生活を日記に綴っています。

 

 以下、そんな平和な日々をご披露します。

 

 

ふるさとを思う心

 

大正十一年四月二十三日

久しぶりにて帰村

 

 奥中山下車(一戸町)。父及び由五郎(次弟)の迎えを受けて、山路を我家へと足を急がす。源次郎渡りにて又吉伯父、悦郎が更に迎えに来てくれ、同所の雪消えたる草原にて余のためわざわざ持ち来りてくれたる握り飯にかやき汁を速製し、腹皮の張りきる程舌鼓を打つ。

 山路の澤、さては窪地の中、彼方に消え残りたる雪を心地良く踏みつつ、なつかしき田代山よ岩木山よと、過ぐる大正七年の春三月に突恕出京せし時の有様と今の心境を思い比べて感無量。

 夕刻皆々に欣び迎えられ六時頃家に入る。母一人欣びくれたり。そして話は尽きず。こんこんとして湧きいずる泉の如く。近所、隣に挨拶まわりなり。

 この帰郷中に田打ちの手伝い、家普請の手助等をなし、殊に変わりたるは岩木三十郎の理右エ門の嫁取りに迎えの役を務めたる。変わりたることもなせり。

 

 

 

 当時、まだ花輪線は部分開通。

 東北本線(今はiGR)の奥中山高原駅から七時雨山に広がる田代平を抜けて、片道20キロ弱の急こう配のアップダウンの山道を通って安代に抜けたのかと思うと、交通の労を思います。

 でも、祖父のようなもてなしを受けたのであれば、長旅の苦労も報われたことでしょう。

 

 今回はあと一つ。

 (ということは、次回もある。ご容赦を)

 去年、僕も日光に行きましたが、祖父のこ気味いい表現に脱帽しました。

 

 

昭和六年十月十一日

日光見物

 

 日光を見ざれば結構と云うべからず、と人々云うを聞き、今年は家族連にてと、宿望を居たりしが、希望ここに叶いて、今日我等夫婦に英太と三人連にて、上野発割引急行列車に便乗、日光見物としゃれ気分。

 英太は、ひさし振りの汽車にいたく喜び、絶えず車窓より郊外の変わる景色を眺めてあきず。

 日光の各社の建築美は真に美と結構に盡(つ)きその細部を研究せば日暮門ならず、若しくは日暮れまでながめてもあかざるべし。

 ただ、建築の餘りに華美なるため尊厳さに乏しく、他の白木造りの社に比し拝するに気分ののらなきを覚ゆ。

 自動車上より見る周園の山々の眺めは一層面白く、大谷川の流れ、男体山の山津波の跡さては華厳の滝、中禅寺湖など景色は何れも百パーセントの眺め価値ありて満足せり。湖畔にて記念の写真を撮る。