僕の宵と明けの唄

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僕の宵と明けの唄

アスペルガー症候群の僕の日々の生活・趣味を綴ります。

亡き人を偲ぶ夏~祖父・一太~2

 父方の祖父・一太は、子どものころから、学業成績もよく、近隣の人から「おめは、こんなところにいる人間じゃねぇ」と言われて育ったと聞いています。

 一方で、祖父は農家の長男でしたので、祖父自身も複雑な思いを抱えていたようです。

 しかし、大正7年に一念発起して、東京に出ます。

 

 以下、祖父の日記から。

 

大正七年三月十二日 数え年 十八歳

 出京

 

大正八年四月八日

 故郷より来客有り面会したしとの電話により、上野駅前東京館を訪問した処、意外、父を始め岩木の伯父、石神の留吉、斎藤佐七老、岩屋田表(たもて)等五人にて東京見物に来れりとの話に、先ず案内役を承り、直ちに動物園始め各名所を案内し、当夜は同旅館に御一行と共に泊まり、余は久しぶりに父と同じ布団に寝みぬ。

 翌九日も亦案内し、父を除き他の人は伊勢参りに東京駅より出立。

 余は父を連れて浅草に至り早取写真の記念撮影を寫し四方山話にひたりぬ。父は働き手ののなきを理由に、余に帰郷を切りだし促して譲らず。致し方なく一時のがれの便法に、本月二十日過ぎに帰ると云い、同夜十一時上野発の列車に乗車させ、淋しく別れる。

 (十日~十一日)日夜自分の方針にぐらつき、進むべきか父の意に隨(したが)い帰るべきか色々考え、心中泣く。

 

大正八年四月十一日

中央商業学校入学

 かねて企て居たる入学のことを本日愈々(いよいよ)決し、ついに入学。故郷には帰らぬことに決しぬ。十四日、丁度百人町村井氏宅へ佐藤三郎氏来れるを幸い色々話し、帰郷せぬ傳言を依頼し、且つ父に金二十円也渡し方を依頼せり。

 

 

 

 決心

 祖父は意を決して、東京での生活を選んだようです。

 その後、長きにわたる奮闘を重ねますが、以下の「改名」の日記で、その心の内を垣間見ることができます。

 

 

昭和六年七月一日(数え年 三十二歳)

改名

 十数年来の希望。其れは、漸(ようや)く色々を考える年頃になれば、誰でも語り合い、且つ希望しながらも法律上の問題で十中の八、九迄、否其れ以上に解決せずじまいに、其のままに終わり、たえなる改名の件も去る六月末萬事解決し、戸籍謄本も着したるため、本日附を以って知人、一般、並保養院事務所に届出なしたるに、事務所の連中だしぬけの通知に森島氏等一寸(ちょっと)意外の感じしたるに見ゆ。

 理由は、同村に同氏名有りたるに由る。

 三十年此の方の佐藤伊太郎なる名も、この日より「佐藤一太」と改まり、世に処すこととなる。願わくは、改名の件と同様に、年来希望して止まざる一流大会社への就職が一日も速やかに解決してくれればと、一人心に願ってやまず。

 絶えざる決心の継續(けいぞく)は、やがては成功するものだと唯か先人の教えが事実なりと信ずるが故に、余は梢々(しょうしょう)現職に永すぎたる気持ちすれども、悲観はせず。此れら思う毎に何時かと思い直し、現職を疎にせず、精一杯働きて心を神にゆだねおく。

 

 

 

 祖父の一大決心を記し、尊敬を覚え、まさに祖父を偲んでいる自分です。